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原文の読解力の不足を痛感する理由

自分が考えてもいなかったことを表現するのだから、自分の文章力では表現できないことを表現しなければならなくなる場合もでてくる。だから、翻訳という作業のなかでは、自分の文章力の不足を痛感することが少なくないのだ。原文の読解力の不足を痛感する理由も、これに似ている。外国語で書かれたものだろうが日本語で書かれたものだろうが、それを読むときに、文章を完全に理解できなければならないと感じることはめったにない。通常は、よく理解できない部分があっても、気にせず、先を読んでいく。話を聞いているときにもおなじことがいえる。つねに神経を集中させて、一語一句をもらさず聞こうとしているわけではなく、全体として何を言おうとしているのかがわかればいいという姿勢をとっている。ところが翻訳の場合はそうはいかない。一語でもわからない言葉があれば、一文でも理解できない部分があれば、翻訳はできない。始めから終わりまで、すべてを理解しなければならない。この結果、読解力の不足を痛感することになる。内容の理解力が不足していると感じる理由もおなじだ。日本語で書かれた文章を読むにしても、あらゆる分野のあらゆる文章を理解できる人などめったにいない。これが日本語なのかと思えるような判決文をほんとうに理解できるのは、法律の専門家だけだろう。では、法律の専門家にパソコンの最新技術を紹介する記事、競馬の予想記事、最新のファッションについての記事、証券理論の論文、医学論文、現代詩が理解できるだろうか。なかにはどれかひとつかふたつなら理解できるという人もいるだろうが、全部を理解できる人がいるとは考えにくい。だれでも、興味をもつ範囲がある。興味をもっていなかった分野の文章であれば、よく理解できないとしても不思議ではない。